マッカーサーが来るまで私はお嬢様だった

今回は雑談です。
前回、マッカーサーの話題を書いたので、関連した話題として母の体験を書きます。

私の母は昭和10年生まれで、今年90才になりました。6才の時に戦争が始まり、終わったのは10才の時でした。
母は、毎年終戦の日の頃になると、決まって口にする言葉があります。

マッカーサーが来るまで私はお嬢様だった

と言っても、母の実家は名家でも大地主でもありません。ごく普通の農家で、母も小さな頃から農作業や家の手伝いなどをしていたそうです。ただ、実家は農作業の傍ら、地域の神社の神主や、役場の仕事などを担っていたので、村の中では一目置かれる家系だったようです。ですので、「お嬢様だった」というのは、名家が没落したという意味ではなく、『生き方が大きく変わった』という意味で言っているのだと思います。

そんな母が、今でも終戦の日の頃になると、時々自分の戦争体験を話します。その中から幾つか紹介します。

開戦時の記憶
今でいう小学校に入った年齢だと思いますが、12月の寒い中、全校生徒が校庭に集められて校長先生から戦争が始まったことが伝えられそうです。まだ幼かったので深い意味までは分かりませんでしたが、大人たちの緊張感は感じたそうです。

供出の記憶
・食糧:特に米は「兵隊さんに食べてもらう」ために、ほとんど供出したそうです。
 ワラビの根(株を掘り出して乾燥させたもの。そこからデンプンが取れる)も納めたとのこと。
 また、学校の校庭を耕してサツマイモを栽培。
・金属類:鍋や釜など、最低限生活に必要なもの以外は供出。箪笥の取っ手具なども。

疎開者の記憶
母の実家は新潟県の内陸部にあったので都会から多くの人たちが疎開してきました。
列車から降りてきた人の中には、焼け焦げた服を着ていた人たちもいたそうです。
また、疎開者を受け入れる側も生活に困窮している家が多く、何度か知り合いに芋を分けてあげたそうです。

空襲の記憶
母が住んでいた村は爆撃を受けませんでしたが、30Kmくらい離れた都市が爆撃を受けて甚大な被害がありました。長岡空襲です。当時母は、大人たちに混じって夜空を見上げていて、北に向かって動いている多数の明かりを見たそうです。B29爆撃機の編隊です。やがて、明かりが越えていった山の先の暗い夜空が何度も赤く染まり、その度に大人たちが「おぉ.. 」とどよめいていたそうです。それがとても恐ろしかったそうです。

出征の記憶
母の近親者には戦争にいった人はいませんでしたが、母の父親(私の祖父)は、いつ招集されてもいいように、竹やりで突撃の訓練をしていたそうです。それから30数年後、祖父は私が高校生の頃に亡くなりました。強面でしたが優しい人でした。村の共同墓地に戦没者慰霊碑があり3名の戦死者の名前が刻まれています。もしかすると祖父も戦争に行ってこれに名前が刻まれていたかも知れない、と思うと怖くなります。
ちなみに、私の妻の父方の祖父は南方の戦場で戦死しました。生まれたばかりの我が子を一度だけ見て戦地に赴いたそうです。ですので、義父には父親の記憶がありません。

戦後の記憶
何故か母は、終戦の日(8/15)のことを話しません。開戦日の話はするのに..。憶えていないのか、つらい思い出があるのか定かでありません。
終戦後のことで母がよく話すのは次の2つです。
・教科書の墨塗り:敗戦により世の中の価値観がガラリと変わり、それに伴って学校での教育内容も変わりましたが、新しい教科書が間に合わないので、使っていた教科書の不適切な部分を黒く塗りつぶしました。ドラマでよく見ますが、母は実際にやったそうです。
・御神体隠し:進駐軍が神社を壊しにくるという噂が広まり、急いで御神体を実家の天井裏に隠したそうです。鏡だったそうですが、丁寧に布に包んで茅葺屋根の茅の中に埋めて、ちょっと目には分からないようにしたそうです。


以上、母の戦争の記憶でした。
戦争語り部が話す内容やドラマで描かれるような悲惨な記憶ではありませんが、一般庶民が日常生活の中で経験した、当時としてはごく普通の経験です。ごく身近な人から聞いたリアルな経験です。
今の時代では信じられませんね。映画やドラマのような作り話のように感じるかも知れませんが、たかだか80年前にあった現実です。そして、それと同じことが、世界のどこかで今この瞬間にも起きています。
戦争は、一部の人だけに関わる特殊な状況ではありません。ひとたび起これば多くの人が巻き込まれます。今、世界中で、戦争が起こる兆候とも言えるような出来事がたくさん起きています。政治も個人も、全ての流れが “対話” から “対決” に変わってきているように感じます。とても恐ろしいです。

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