政治家や企業の経営者が不祥事を起こしたとき、「責任をとって辞任します」「どう責任をとるつもりなのか?」「責任をとって辞めろ!」という発言をよく耳にします。この《責任をとる》とはどういうことなのでしょうか?
辞書によると「責任」には 【任務】【罰】【賠償】の意味があります。そして「責任をとる」は【罰】の用例として載っていることが多いようです。これには、次のような論理が働いている気がします。
責任の「責」とは? : とがめること、こらしめること、罰を与えること
→「責任」とは? : 成し遂げなければ責めを負う任務、罰を受ける任務
→「責任をとる」とは? : 成し遂げなかった時に責めを負うこと、罰を受けること
しかし、”議員を辞任する” とか “経営から退く” というのは罰なのでしょうか? 多くの人は、それに違和感を感じていると思います。確かに当人からすれば、地位・権威・名誉・収入などを失うのですから罰だと感じるかも知れません。そして中には「罰を受けさえすればすべて許される」と思っている人もいるかも知れません。それで罰と言えるでしょうか? 責任をとったと言えるでしょうか?
不祥事によって迷惑を受けた人、すなわち任務を任せた人(例えば、政治を任せた国民、資産を預けた株主、人生をゆだねた社員)は、罰を与えることを望んでいるのでしょうか? 私は、彼らが本当に望んでいることは、不祥事を起こした人に制裁を科すことよりも、安心して過ごせる社会・資産の増加・安定した生活なのではないかと思います。つまり、任務をまっとうすることだと思うのです。
「責任をとって辞任します」という発言からは、自己中心的で打算的な感じを私は受けます。また、「どう責任をとるつもりなのか?」「責任をとって辞めろ!」という発言は、少し距離を置いて安全な所からただ責めるだけの “無責任発言” に感じます。不祥事を起こした時に本当に必要なことは、《責任をとる》ことではなく、不祥事を改めて任務をやり遂げる《責任を果たす》ことだと思っています。
私は『銀河英雄伝説』(田中芳樹 原作)が好きで、よくアニメを見返しています。第35話で、敵の策略にはまり多くの犠牲を出して敗走した提督が、主君に対して自分を処罰するように求めるシーンがあります。その時、主君はこう応えます。
『お前に罪はない。一度の敗戦は一度の勝利で償えばよいのだ』
この言葉が、《責任をとること》の真の姿を教えてくれているような気がします。
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「責任」という言葉は、昔から「自由」という言葉とセットで考えられてきました。「自由には責任がともなう」は哲学の大きなテーマの一つです。私はこれを「自由とは、何でも好き勝手にやってもいいということではなく、一定の制約の元で認められるもの」と解釈しています。例えば、「他人を害しない」「社会秩序を守る」などの制約です。つまり「責任」とは、自由を得るための制約条件と言えます。
『交響詩篇エウレカセブン』というアニメに次のセリフがあります。
『自由であることとは、その責を負い覚悟することだ』
この「責を負い」が、自由を得るために制約を受け入れて行動することであり、それは覚悟がいることだと考えています。
「自由には責任がともなう」は、逆もまた正しいと言えます。《責任には自由がともなう》のです。これが、品質の世界での考え方です。ここでの「自由」とは「権限」のことです。「権限」とは「裁量権」のことです。例えば、予算の配分、施設・設備の使用、人員の配置や考課などを自由に行える権利です。つまり、責任を負わせる(任務を与える)ときには、その遂行に必要な環境を整える権限(裁量権)を与えなければならないということです。責任を押し付けるだけでは、反発や混乱を招いて組織はうまく動きません。責任の大きさに見合った権限を与えることが必要なのです。
ISO9001(JISQ9001:2015)には「責任及び権限」という記述が幾つかあります。その中で、以下の事項について責任及び権限を割り当てる(責任者を決めて相応の権限を与える)ように求めています。
・品質マネジメントシステム(QMS)の構築、運用、変更、報告
・顧客重視の取り組み
・設計・開発プロセス
・その他、必要なプロセス全般
つまり、重要な作業については、責任者を定めて、責任者が迅速に動けるようにすることが重要なのです。
「責任は俺がとるから自由にやれ」は一見格好いいように感じますが、責任と権限が噛み合わないことは混乱のもとです。また、このセリフは上司と部下の信頼関係で成立するものであり安易に使うのは危険です。まして「自己責任で自由にやれ」は、「どうなっても俺は知らない。勝手にやれ」という意味であり、最悪の上司と言えるでしょう。
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