『暇と退屈の倫理学』を読んでみた

「2022年 東大・京大で1番読まれた本」というPR文にひかれて読んでみました。暇と退屈に関する哲学の歴史が書かれた難しい内容でしたが、非常に刺激的で面白い本でした。特に、現在の消費社会に対する批判は痛快でした。そして「考えることが大切」という結論にとても共感したので、今回の記事で取り上げました。
以下、特に興味深かった内容を抜粋して書きます。(私の解釈が入っています)


世の中が豊かになれば人々に余裕が生まれる。余裕とは、生きていくために必要な量を超えたもの。「金銭的余裕」と「時間的余裕」の2つがある。
《問》余裕を何に使うか?
《答》余裕がないときに出来なかった “好きなこと” に使う。
《問》”好きなこと” とは何か?
“好きなこと” をはっきり言える人は少ない。多くの人は広告やCMの「あなたが欲しいものはこれですよ」という言葉に踊らされている。「経済は需要によって動く」という〈消費者主権の経済学〉は昔の話。今の社会は供給側が需要を操作している。つまり、消費者の「欲しい」という欲望が生産を左右するのではなく、金銭的余裕のある消費者に生産者が欲望を植え付けている。
時間的余裕(生きていくために必要としない時間)が “暇”。時間的余裕がある時に同じことを繰り返していて感じる苦痛が ”退屈”。退屈の反対は “興奮” 。[快楽] や [楽しいこと] ではない。人は退屈に耐えられない。退屈から逃れるために興奮を求める。「何か面白いことがないかなぁ」と思っている人は、実は楽しいことを求めているのではなく、興奮できるものを求めている。[本当に楽しいこと] を求めるのはとても難しい。幸福な人とは《楽しいことを得ている人》ではなく、《楽しいことを求めることができる人》だと言える。

二足歩行する初期人類が誕生したのは約400万年前。約20万年前に誕生した現人類が定住生活をするようになったのは約1万年前。その前の数百万年間は遊動(狩猟)生活。人間は遊動生活に適応するように進化してきた。農耕するために定住したのではなく、定住する必要に迫られて農耕が始まった。定住するようになって人々の生活は劇的に変化した。例えば、
・ゴミ処理(ポイ捨て禁止)、トイレの分離 … 社会秩序の誕生
・死体置き場(生きた人間と死者の居場所の分離)… 埋葬、宗教観の誕生
・貯蔵、貧富の差、社会的不平等 … 権力の誕生、法の誕生
・退屈の回避(生きるために発達した脳の使い道)→ 空間的遊動から精神的遊動へ … 文化、文明の誕生
貧富の差や権力が誕生して《特権階級》が生まれた。彼らは〈生きていくための生産活動〉を免除された存在。つまり、ずっと暇な状態。だから彼らは〈暇を潰す方法〉を身につけた。暇は、特権階級の特権だった。
現代になり、特権階級の特権が取り上げられ、それまで虐げられていた平民の富が増した。そして、それまで生きることに精一杯だった人が時間的余裕(すなわち “暇” )を手に入れた。つまり〈暇に慣れていない人々〉が急激に増えた。彼らは、”退屈” に耐えられず “興奮” を求めた。

資本主義社会の初期、労働者は安い賃金で休みなく働かされていた。中世の平民のように生きるのに精一杯だった。労働環境が改善したのは、労働者をしっかり休ませた方が生産性が高まり収益が増えることに使用主側が気づいたから。だから、労働時間を制限し、休日を設け、休日にしっかり休んでいるか監視していた。大量生産の時代の労働者は、生産性を高めるために〈休むこと〉を管理された。
機械化が進むと「仕事を奪われる」と心配する人もいたが、作れば売れる時代は人間の仕事がなくなることはなかった。やがて作っても売れない時代になった。そこで供給側は市場を操作し始めた。その代表が、”レジャー産業” と “広告” 。レジャー産業は、何をしたらよいか分からない人(退屈に耐えられない人)に「したいこと」を与えた。広告は、自分の欲しいものが分からない人に「欲しいもの」を教えた。自動車メーカーは休暇とレジャーを勧めて車を買わせた。家電メーカーは次々と〈新商品〉を発表して「あなたの欲しいものはこれ」とささやいた。”退屈” に耐えていた人々は〈新商品〉という刺激に “興奮” して買った。そしてそれを求め続けた。こうして、大量生産の時代から “短サイクルモデルチェンジ” の時代になった。
短サイクルの時代は、売れるか売れないか分からないので一つの製品を大量に作らない。そのため大規模な機械は持たず、些細な機能変更は人間が行う。つまり、機械の代わりを人間が行うことになった。沢山売れれば労働者を雇って大量に生産し、売れなければ労働者を切る。こうして《非正規社員(派遣労働者)》が増加した。消費者の「退屈から逃れるため」の行動が《ハケン問題》を生んだ。

必要以上のものを手に入れることは「贅沢」 と言われ、しばしば非難される。しかし、必要な分しか持たない状態では何かアクシデントが起きたときに困窮する。安定的に生活するためは必要な分を超えて持っている必要がある。安定的な生活が “豊かさ” であり、それには “贅沢” が必要。
“浪費” とは、必要を超えた物を手に入れること。”浪費” には限界があり、いずれストップする(満足する)。例えば、食べきれる量には限界があるし、衣服を置いておくスペースにも限界がある。これに対して “消費” はストップしない。雑誌やテレビで紹介されたものを際限なく求め続ける。”消費” の対象は物ではなく、それらに付与された概念。例えば、「 “有名人が通う” 店」「 “モデルチェンジ” した商品」。物ではなく概念だから際限がない。「まだ行ってないの..」「まだ使ってないの..」と疎外感を煽る広告やSNSに踊らされて、絶え間なく新しい店を探し続け、新商品を買い続ける。しかし、際限がないから決して満足することがない(ストップしない)。満足感(豊かな生活)を手に入れられないから退屈している。そして退屈に耐えられずに、興奮を求めて常に新しい店や新商品を追い続ける。これが “消費社会” の構造。
昔の社会は《暇はあるが退屈していない支配階級(暇つぶしの術を持った人々)》と、《暇がなくて退屈していない労働階級(生きるために必死に働く人々)》に二分されていた。近代になって《暇があって退屈している大衆(必死に働かなくても生きていける人々)》が急激に増加した。そして現代は《暇がなくても退屈している人々(消費社会を生きるのに必死な人々)》が激増している。


ここまでが前半です。後半はとても難しいので紹介を断念します。結論だけ述べると、退屈から逃れるために、”浪費” と “考えること” の勧めです。要約すると、
・退屈から逃れるためには、満足しなければならない
・”消費” の対象は物ではないので際限がない。求めても求めても満足しない
・満足するためには、”浪費”(物をきちんと受け取ること)が必要
・受け取れるようになるには、勉強して訓練しなければならない
例えば、グルメサイトに踊らされて食べ歩いてばかりいても退屈からは逃れられない。材料・産地・調理法・歴史などを調べて勉強するようになれば退屈でなくなる。ただ漫然と習慣で生きるのではなく、常に待ち構えていることで退屈の克服につながる。
言ってしまうと単純ですが、そこに至るまでに難しい説明が続きます。興味がある方は実際に読んでみてください。

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