2025年1月22日、JR長野駅前で男女3人が次々と殺傷される事件が起きました。
(日頃よく利用する身近な場所での事件に強い衝撃を受けました)
亡くなられた被害者のご冥福と、けがをされた方の一日も早い回復を祈ります。
今回は、この事件を通して考えたことを述べます。
目次
・罪を憎んで人を憎まず
・罪を憎んで人だけを憎まず
・罪を憎んで人柄を憎まず
・失敗を責めて人を責めず
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このような痛ましい事件が起きるたびに、私はよく「罪を憎んで人を憎まず」ということわざの意味について考えます。このことわざは、一見するとシンプルで分かりやすいように思えますが、よく考えるととても不自然で、人によっては「おかしい、納得できない」と感じる人もいるのではないでしょうか。
この言葉を「犯罪は憎んでも犯人を憎むな」と解釈すると、多くの人はおかしいと感じると思います。被害者からすれば犯人を憎むのは当然だからです。
解釈の妨げになる理由の一つが「憎む」という言葉です。辞書にはいろいろと書かれていますが、私は「存在を消したいほど嫌うこと」というイメージを持っています。犯人の存在を消すことはできませんが、「消したいほど嫌う」ことは許されると思います。ですので、このことわざを言葉通りに解釈すると、私は納得することができません。
また、「憎む」を「責める」と解釈する人もいると思いますが、「責める」は人間や組織に対してのみ使われる言葉なので「罪を責めて~」という表現は日本語としておかしいと思います。「罪を犯した人を責めて」であれば分かります。しかし、これを元々のことわざに当てはめると「罪を犯した人を責めて人を責めず」となります。矛盾していますね。
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このように、「罪を憎んで人を憎まず」を言葉通りに解釈すると、大きな違和感を感じます。この違和感を解決するために、多くのサイトが「人を憎まずとは、”犯人だけでなく動機や背景や環境にも目を向けるべき” という意味です」と解説しています。つまり、
「罪を憎んで人だけを憎まず」
です。この考え方は性善説にもとづいています。性善説とは、「人は本来みな善人であり、悪に染まるのは環境や社会のせい」という考え方です。
これはこれで良い解釈だと思いますし、もともとの由来はそうなのかも知れません。しかし私は、この解釈に危険性を感じています。それは、
犯罪を犯した人間と同じ境遇の人が犯罪者予備軍とみなされるかも知れない
からです。
実際、凶悪な犯罪が起きるたびに、多くのメディアが犯人の人間像・生い立ち・育った環境などを大きく報道しています。その目的が「社会に問題があるから手を打とう」という問題提起であればよいのですが、実際は大きく違っているように思います。「こういう人間がこういう犯罪を犯した」と報道することで、極端にとらえれば「こういう人間は犯罪を犯す危険がある」と吹聴しているようにさえ感じるのです。
この危うさを感じるたびに私は、中学生のときに読んでトラウマになった「デビルマン」という漫画を思い出します。デビルマンは、テレビアニメでは「♪あれは誰だ、誰だ、誰だ~」と歌う主題歌が有名で、正義のヒーローものとして人気がありましたが、原作はとんでもなくグロテスクで気持ちが悪く恐ろしい話です。「こういう人間は悪魔に取り込まれるから殺してしまえ」という考える人間の恐ろしさを描いた作品です。住民運動を起こした地区の人間は悪魔に取り込まれるから皆殺し.. 思い出しても恐ろしい。(気が弱い人は絶対に読まないでください)
「漫画だけの話だ」と思われるかも知れませんが、このようなことはレアルでも起きています。例えば、関東大震災直後の虐殺事件(映画にもなってます)がまさにそれです。また、中世ヨーロッパの魔女狩りや、ナチスによるユダヤ人迫害もそれに近いでしょう。
「こういう人間は犯罪を犯す危険がある」という発想は、貧しい環境で育った人は.. 特殊な家庭環境で育った人は.. 田舎で育った人は.. になりかねません。報道機関には、そのように受け取られないように充分に配慮して欲しいと思います。
最近の報道番組は、視聴率を上げるために過激で偏ったものが多いと感じています。視聴率も大事ですが、注目を集めることよりも、今回のような痛ましい事件が二度と起こらない社会にするための情報を発信して欲しいと思います。また、フジテレビの問題のように報道機関自体の不正が明らかになることもありますが、そんな時、他局のワイドショーは、ここぞとばかりに批判を繰り返します(私にはそう見える)。「明日は我が身」かも知れないのに… 他者の不正を知ったら、上げ足を取るようなことばかりしていないで、自分たち自身を顧みて身を正すべきだと思います。
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ここまで、「罪を憎んで人だけを憎まず」という解釈の懸念点について述べてきましたが、これに代わるものとして、私は次の解釈を提案したいと思います。
「罪を憎んで人柄を憎まず」
人柄とは、その人の人間性(性格や考え方や技能)や生い立ち・育った環境などです。人にはそれぞれ違う個性があります。同じような生い立ちや育った環境でも、行動が同じということはありません。性格や考え方が似ていても生み出す結果は同じではありません。人は皆それぞれ異なるのです。個人は尊重されるべきです。犯罪者や犯した犯罪行動を非難することは許されても、その人柄まで否定することはあってはならないことです。
社会人生活でも人柄を攻撃する/されることはよくあります。人間性を攻撃したがる人は多くいます。例えば、私の経験ですが、ある酒席で、私と同じ趣味を持った上司がしつこくその楽しみ方を主張してくるので、「それはあなたの楽しみ方ですよね。私には私の楽しみ方があります」とつい口ごたえしたとたん、「だからお前は仕事もダメなんだ」と罵倒されました。楽しみ方は人それぞれであり、趣味と仕事は別物なんですけどね。酒の席とはいえ… 我慢できずにすぐにその場を離れました。こういう人は結構います。私も無意識に他の人の人柄を批判しているかも知れません。みなさんも気をつけましょう。
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品質の世界にも、人柄攻撃に似たようなことがあります。傾向優先(人柄攻撃を推奨するもの)と個性尊重(人柄攻撃を否定するもの)の両方があります。
【品質分析】傾向を分析して不良を未然に防ぐので、傾向優先(人柄攻撃型)と言ってよいでしょう。
【原因分析】個々の失敗に向き合うことが大切なので個々重視ですが、個人攻撃は禁物です。失敗した人のせいにするのではなく、冷静に分析して二度と起こさない(起こさせない)ことを目指しましょう。(記事「失敗の原因(状況、心理、行動)」参照)
つまり、「失敗を責めて人を責めず」です。
【QMS】 ISO9001は品質管理システムの在り方に関する規格ですが、各組織のやり方を尊重しています。(記事「ISO9001の誤解1(定めていること)」参照)
また、内部品質監査では、監査員のやり方に固執しないで組織のやり方を尊重することが鉄則です。
【人材育成】傾向優先と個性尊重の両方あります。OFF-JTのカリキュラム体系は傾向優先(欲しい人材像優先)になります。しかし、業務でのON-JTは個々の社員に応じた個別指導が中心です。
このように、モノゴトには傾向を重視するものと個性を重視するものがあります。今の作業がどちらなのかよく考えて行動しましょう。
犯罪者に対する行動(憎しみ、非難、嫌悪)は、犯罪者個人のみに対して向けられるべきものです。また、「こういう人は..」という差別や誹謗中傷など決してあってはならないことです。
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